エッセー

考え方のヒント 基礎編5 「人間は死すべきものである」

情報はたくさんあります。けれども、考える力がなければその情報をどう扱って良いのかわかりません。また、何が正しく何が間違っているのか、判断することもできません。どう生きたらよいのか、という問いに答えるためには、情報と同時に考える力が必要です。ここでは、考え方の基本をご紹介しています。今日のテーマは、「人間は死すべきものである」です。何かものを考えるときに、あるいは何か人生の選択をする時に、忘れてはならないけれども、多くの人々が忘れている真理です。

ギリシア古典には、神々と人間が登場します。そしてしばしば神々は、「不死なる神々」と呼ばれ、人間は「死すべきもの」と呼ばれます。人間存在の本質は、死すべきものであるということ。つまり、人間には限界がある、ということです。この考えは、西洋文明の根底を流れる古代ギリシャ文化の根本をなす考え方でした。ちょうど日本の古典の底流には、「諸行無常」という考え方流れているのと同じです。

「人間は死すべきものである。」このことは人間存在にとって厳正たる事実でした。(同時に「不死なる神々」という存在を想定していたことはとても興味ふかいことなのですが、今日は神々については深く触れないことにいたします。)古代、中世と、自然の力に対して人間はあまりにも微力でした。疫病が流行すれば多くの人がなくなり、平均寿命も短かった。人間は死すべきものであるというのは当然の事柄でした。けれども近代になり、自然科学が発達し、医療が進歩すると、平均寿命が伸び、幼児死亡率も減って「死」はどこか遠いものになります。ちなみに18世紀フランスの思想家ルソーの「エミール」という本でに、「生まれてきた子供のうち青年に達するのは約半分」と書かれています。さらに日本人の約8割が病院でなくなります。スウェーデンでは4割、フランスでは6割と比べるととても高い割合です。人生百年時代を迎え、私たち現代日本人にとって「死」はますます遠い存在になりました。

「死」が遠い存在になったことは喜ばしいことです。しかし、「何ごとも等価交換」(考えるヒント基本2)でも申し上げましたが、死が遠い存在になったという良いことが起きれば、それと同程度の対価を支払わなければなりません。「人間は死すべき存在である」という事実を忘れたことの負の側面は、今を生きることができなくなったことである、とわたしは思います。

人間は死すべき存在であるという事実が遠いものになったにもかかわらず、人間は死すべき存在であるという事実は変わりません。わたしたちは相変わらず不死ではなく、生まれ落ちた瞬間から「死」に向かって歩みだすのです。わたしたちは生まれながらに死刑を宣告されているのです。刑の執行がいつあるのか分からない。そういう状態にあるのですね。今日普通に出会っている人と、一度別れたらもう二度と会えないかも知れない。だから人との出会いを大切にしよう、というのが「一期一会」の考え方です。スティーブ・ジョブスは毎朝、「明日死ぬと分かっていても今日これからしようとすることを自分はするだろうか?」と問いかけたといいます。イエスキリストは、明日世界が終わるかも知れない。だから、喧嘩した友人とは今すぐ仲直りをしなさいと聖書で教えています。両親や親しい人々への感謝の気持ちを伝えられずに死別して後悔するということもよく聞きます。

死を意識すること。これはラテン語で「メメント・モリ」(死を忘れるな)と言います。ギリシア語で「汝自信を知れ」は「グノーティ・サウトン」と言いますが、この言葉と一緒によく描かれているのが骸骨です。つまり、自分自身を知るとは自分が死すべき存在だということを知れ、ということです。一見ネガティブなようですが、そこから出発することで、1日1日を大切に、誠実に過ごしてゆくという態度が生まれます。周りの人々にも公正に寛容になることができます。

みとりの看護を長年続けてきた医師が、多くの人が死ぬ間際に後悔することを三つ教えています。まず第一は、「やりたいことをやらなかったこと。」そして「家族との時間をもっと大切にしておけばよかったということ。」そして、「負の感情を抱く時間が長すぎたこと。」つまり、嫉妬や恨み、憎しみ、後悔などに自分の貴重な人生の多くを費やしてしまったことを後悔すると言うのです。

人が死すべき存在であるということを忘れているから、したいことを我慢してしなければならないことをするのです。家族や友人がいるのがあたりまえと思っているから、その人たちと一緒に過ごす時間を惜しむのです。いつまでも時間があると思っているから、ネガティブな感情に支配されている時間を惜しみません。逆に言えば、死を意識することは、この三つの後悔をしない生き方をしようと決心させる力になるかも知れません。

古代ギリシアの哲学者であるソクラテスは同時代人を批判して、「彼らは永遠に生きるかのように家を建て、明日死ぬかのように飯を食う」と言いました。聖書にも、富を蓄えすぎて蔵が手狭になり、新しい蔵を建て、「これでもっと財産を蓄えることができるぞ」とほくそえむ金持ちに向かって神が、「おろか者め、おまえは明日死ぬ運命にあるのだ。その蔵が一体なんの役に立つだろう」と言う場面があります。トルストイにも、「人間にどれだけ土地が必要か」という寓話があります。1日で歩き回れる土地をもらえると聞いた人間が、欲を出して死ぬまで歩き続け、結局縦2メートル、横1メートルの墓に埋められたというお話です。死を意識することは、自分にとって何が一番大切なのかを考える機会でもあります。ぎゃくに、死を忘れることは、その重要な問いから目をそらすことでもあるのです。

人間の限界は「死」。これは別の言い方をすれば、人間には限られた時間しか与えられていないということです。金持ちも貧乏な人も、すべての人間に与えられている時間は1日に24時間です。このことを忘れていませんか?例えば、100チャンネル以上もある有線放送。でも人間は一時に一つのチャンネルしか見られません。「ストリーミングで10万曲が聞き放題」しかし、1日8時間聴いたとしても2年近くかかります。かつては手に入るレコードも本も小さな書店やレコード屋さんに収まる範囲でした。人々はその限られたものを大切に繰り返し読んだり聞いたりしながら人生を深めていったのです。けれども、数十万、数百万の本や音楽が手に入るわたしたちは、もう30分も集中することができず、一つのアルバムや本を読み通す力がありません。1日24時間しかないのに、面白いことが多すぎるのです。youtubeを倍速で見たり、一つ30秒以下の動画を見続けたりして、なんとか短時間で多くのものを見ようとしても限界があります。そして1日があっという間にすぎてしまいます。一つのことを深めたり打ち込んだりすることが難しくなってしまいました。便利な機器やコンテンツの配信元は、そして受け手の方も、人間の時間が限られていることを忘れているようです。

人間には限られた時間しか与えられていない、ということを忘れてはなりません。その限られた時間を大切に使うとはどういうことなのか、考える必要があります。それは多くの情報を詰め込んだり、垂れ流したりすることではないとわたしは思います。それは大切な少しのものと、ゆっくり時間を過ごすことかも知れません。限られた時間の中で本当に必要なものは、それほど多くないのかも知れません。

ミヒャエル・エンデという作家に「モモ」という作品があります。これは「時間泥棒」と戦う少女の話です。ぜひ一読をおすすめします。お金儲けや、たくさんの娯楽を詰め込みすぎたためにどんどん時間がなくなってゆく現代社会を風刺した素晴らしい作品です。やがて死んでゆく人間は、どう生きたら良いのか?限られた時間しかない人間にとって、本当に必要なものは何なのか、改めて考えることができるでしょう。

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つじもと ひでお
こんにちは、つじもとひでおです。大学卒業後、ビール会社に5年間勤めたあと、30年間、高校で英語を教えていました。部活動はジャズバンドの指導もしていました。現在も、新潟ジュニアジャズオーケストラで小学校から高校までの子どもたちにジャズを教えています。