養老孟司「バカの壁」シリーズ(全6冊)のご紹介(その2/3)

養老孟司さんの「バカの壁」シリーズは、新潮新書から発売されており、全6冊の売り上げが660万部という大ベストセラーです。現代社会に生きるわたしたちにとって、大切なメッセージが数多く含まれていると思い、簡単にご紹介したいと思います。

養老孟司さんの「バカの壁」シリーズは次の6冊です。

  • 1 「バカの壁」 2003年
  • 2 「死の壁」2004年
  • 3 「超バカの壁」2006年
  • 4 「自分の壁」2014年
  • 5 「遺言」2017年
  • 6 「ヒトの壁」2021年

今回は第2回、「超バカの壁」と「自分の壁」のご紹介です。

3「超バカの壁」
養老孟司さんの定義するバカ、とは、まず自分は絶対に正しいと信じ込んで、誤りを認めないこと。つまり、自己絶対化をすることです。ソクラテスの無知の知にも通じるのですが、自分は何でも知っていると思って、知的好奇心を失うことや、自分の価値観を絶対化して、他の価値観の存在を認められないこと。そういう状態を意味します。

二つ目は「脳を過信すること」。これには少し説明が必要です。養老さんによれば、人間は「脳」と「体」からできている。「脳」は理性や合理的思考のこと。そして「体」は動物、あるいは自然。人間という存在はこの二つのものでできているとします。養老さんが言う、バカとは、脳や理性、合理的思考を絶対化して自然をおろそかにした状態のことです。


養老さんは「脳」には二つの重要な特性があるといいます。まず、「何でも同じにしてしまう働き。」例えばりんごは一つ一つ違いますよね。でも、同じりんごです。りんごとみかんは違います。しかし同じくだものです。りんごとみかんとパンは違います。でも、同じ食べ物です。このように、一般化、抽象化する働きを脳は持っています。この能力のおかげで、人間は言葉を話すことができるようになり、合理的思考ができるようになったのです。なぜなら、「りんご」という言葉(音声)とりんごそのものが同じであるとすることが言語の基本なのですから。

もう一つの重要な特性は、物事を因果関係でとらえたがること。これを養老さんは「脳は、ああすればこうなる、ということが分からないと気が済まない」と言います。一生懸命勉強すれば良い点がとれる。良い学校に行けば良い会社に就職できる。良い会社に就職できれば幸せになれる。と、こんな風に考えたがるのです。

脳が「同じにする」働きを持っているのに対して、肉体、自然は「違う」と言います。一つ一つのりんごは違うりんごだと言うのです。脳が「ああすればこうなる」と言うのに対して、自然は「どうなるかわからない」と言っているというのです。養老さんは、脳の言うことばかり聞いて、自然の言葉に耳を貸さない状態をバカと呼んでいるのです。

養老さんは男女の問題についても、この脳と肉体(自然)の二つの視点で解き明かします。「脳」は、「男女は同じ人間だ」と主張します。しかし自然から見ると「男女は違う」ということは明らかです。養老さんは、男女の違いを全て社会構造や文化に求めるジェンダー論やフェミニズムは、脳の一方的主張であると言います。男女は明らかに違う生き物。もちろん、どちらが良いか、どちらが上かという議論ではありません。男性が外で働き、女性は家庭ににいるべきだ、という議論でもありません。むしろ女性の特質(これを養老さんは安定性と言います)を政策に反映するためにも国会議員の半分は女性であるべきだといいます。男のようになることではなく、女のようであることが社会にとっても利益になるだろうと言うのです。

わたしもこの主張は理解できると感じました。幻想でしかないイデオロギーやヒロイズムで戦争のようなバカなことをしがちなのが男なのです。これまで全ての戦争は男が引き起こして来ました。女性は実際の生活の安定を重視する傾向があると養老先生は言います。だからこそ、政治の場に女性が半分いることが重要なのだろうと感じました。経済活動や教育、意思決定のあらゆる部分で男女が半分ずついることが好ましいと思います。もちろん、女性、男性の違いがグレーであることを理解した上でですが。

養老先生は少子化の問題も、この脳と体(自然)との対立の中で読み解きます。
現代は都市化の時代です。ところでこの都市は、脳が好ましいと考えたことを形にしたものだと養老先生は言います。そこでは「ああすればこうなる」ことが予想できない自然が排除されています。ホコリなく、虫もおらず、一年中温度が一定で、においも騒音もない。そういう状態を脳は好むのです。ところが、子供という存在は「自然」そのものです。大人の思い通りにはなりません。「ああすればこうなる」ことが予想できません。現代の人間は「自然」の価値を認められません。ですから、子供の価値も認められず、子供を産む人が減ってしまったのだと言います。
養老先生は教育者です。現代の教育は子供を大人(脳)の都合の良いロボットのようにしようとしているのではないかと警鐘を鳴らします。子供を中心とした教育は、脳と体(自然)をバランスよく育むことなのです。

ゆきすぎた資本主義、拝金主義も脳化社会という観点で説明できます。お金は脳とそっくりなのです。資本主義の世界では全てのものはお金に換算できます。1キロの米とマクドナルドのハンバーガー一個、魚一匹はお金に変えることで全て四百円という同じものになるのです。わたしがしても、誰がしても同じ時給の労働。この、同じにする働きがあるからこそお金が通用し、経済活動が可能になります。「金が全て」とは、まさに脳の中が全て、ということと等しいと養老先生は言います。

「ああすればこうなる」を好む脳。しかし、人生は思い通りにならないことの方が多いのです。自然災害が起こると、脳は「なぜだ?」と理由を知りたがります。そして責任者探しが始まります。しかし自然災害には「しかたがない」ことが多い。日本の国土は世界の陸地面積の0.25パーセントにすぎません。ところがその日本で、世界の大地震の1割、噴火の2割が起こっています。日本は災害大国なのです。そんなところで何世紀も暮らして来たわたしたち日本人は、自然の不条理を、しかたがないと、あきらめる力、耐性を養ってきたはずでした。しかし都市化が進み、脳化が進むと、人間が「ああすればこうなる」世界にしか耐えられなくなり、結果的に災害の耐性が落ちたと養老先生は指摘します。

科学の世界でも、カオス理論というものが知られるようになりました。複雑系は原因と結果の因果関係がよくわからない。予想ができないのです。フラクタル論理もそうです。物差しが違えば結果が違う。全てに正しい答えがある、という考えが間違っている。ああすればこうなる、ということはあり得ないのだ。まさにこれは養老先生が言う、肉体「自然」の声なのです。

4「自分の壁」
「自分」とは何でしょうか?養老先生は脳の空間定位の領野にある、現在位置を示す矢印のようなものだと言います。脳のその部分が壊れると、自分が液体のようになり、世界と一緒になるような感覚になるのだそうです。

面白いのは臨死体験で至福の状態を味わうひとがいます。それは脳の空間定位の領野が壊れ、自分という矢印が消えて世界と一体化した、肉体から解放され、世界のエネルギーと一体となった幸福感で、宗教的法悦状態もこれではないかと考えられます。

自分、個性、というものは、脳の中の意識が作り出したものです。そして意識は、「自分とはかけがえのない唯一のもので、不変のもの。他者とははっきり区別されるべき存在」だと言います。しかし、体(自然)は自分について何と言っているか?結論から言えば、自分の体は自分だけのものではない、と言っているのです。

人間の体にある細胞には、ミトコンドリアというエネルギーを生み出す器官があります。ところがこのミトコンドリアは、自前の遺伝子を持っているのです。つまり、もともとは別の生き物が細胞の中に一緒に住むようになったということなのです。それだけではありません。繊毛、鞭毛のもとになる中心体も自前の遺伝子を持っている。人間の精子は男性の遺伝子を運ぶ装置なのですけれども、それを動かすエネルギーを作り出すミトコンドリアも、スクリューの働きをして精子を動かす鞭毛も、元は別の生き物であったとするならば、いったいどこからどこまでが「自分」なのか、と考えこまされずにはいられません。

昆虫の完全変態は、蛹の中で全てを分解して作り直します。蝶と幼虫は別の生き物だった可能性がある、と養老先生は言います。幼虫は食べて太り、蝶は飛んで生殖行為に励むという役割分担ができている。二人で一人なのです。ヒトデも幼生はエビのような形になっていて、これももとは別の生物だったのではないかと考えられています。

ヒトゲノムを調べると、たんぱく質の設計に関わっているのは1.5パーセントしかないそうです。あとは何の働きをしているのか不明です。しかもその中の30パーセントはもともとは外部のウィルスだった可能性があるといいます。脊椎動物が誕生して5億年が経ちましたが、その間に、多くのウィルスが体内に入り、住み着いた痕跡だというのです。

それだけではありません。人間の体には、今も100兆もの細菌が住んでいるのです。人間とそれらの細菌は共生関係にあります。最近は肌の保湿の役割や、消化の役割を担っている。つまりお互いに助け合って生きているのです。わたしはこのことを知って、人間とは多くの生き物の暮らす森のような存在だなと思いました。一人の人間が一つの生態系なのです。そうすると、「自分」を確立して独立して生きるという考えには意味がなくなってしまいます。

ブータンには万物はお互いにつながっている、という考えがあるそうです。養老先生は、田んぼは自分だ、と言います。あそこで採れたお米で自分という存在ができているからです。

日本には「自己」があまり発達しなかったと言われています。みんなで一つの生き物、そういう感覚が日本人にはあるのではないでしょうか。養老先生は、「日本はメンバーシップ型社会」だと言います。個人が国籍を取得する、とか、市民権を得る、という考え方ではなく、一つの共同体のメンバーになる。つまり共同体と個人の繋がりが強いのです。例えば欧米では誰かが大きな成果を上げれば、それは個人の成果になります。しかし日本では、協力してくれた人、理解してくれた人がいなければ成果もあり得ず、それゆえみんなの成果、ということになるのです。

養老先生は、日本に「個人」という観念が発達しなかったのは、自然が圧倒的に優位であったからだと考えます。なぜなら、個人、自己、とは脳の、意識の生み出したものだからです。日本の国土の67パーセントが森林、というのは先進国では突出した自然の多さだと言います。もともと日本人は、自然の言葉に耳を傾けることが多かった、ということです。日本人は昔から、意識、脳だけで処理しきれないものが世界にたくさんあることを忘れなかった。

何かと個性を求められ、自己実現しなければならないと信じこまされる現代。そして自分とは何なのかと悩むのが「近代的自我」の問題です。しかし、自己というものが、脳の作り出したものに過ぎず、肉体(自然)の視点から見れば、実に柔軟で境界の曖昧なものであり、多くの他者と繋がっているものだとするなら、もうすこし別の形の「自分」のあり方が見えてくるのではないでしょうか。

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ABOUT ME
つじもと ひでお
こんにちは、つじもとひでおです。大学卒業後、ビール会社に5年間勤めたあと、30年間、高校で英語を教えていました。部活動はジャズバンドの指導もしていました。現在も、新潟ジュニアジャズオーケストラで小学校から高校までの子どもたちにジャズを教えています。